Daily60th

60年の歴史

1870〜1960

酪農組合の創設

—本格的な酪農の始まり—

当社の母体となった宮崎県南部酪農業協同組合、そして大隅酪農業協同組合と志布志酪農業協同組合。本編では、昭和26年から28年頃までに相次いで誕生した各組合の設立に至るまでの経緯を紐解いていく。

昭和40年代初期

昭和40年代初期

1870 鹿児島の知識兼雄が牛乳搾取を開始
1874 土田退蔵、上別府村(現宮崎市)で搾乳業開始
1880 愛甲伸雄、荒襲牧場で搾乳業開始
1891 中郷村に石原牧場誕生。牛20頭を放牧
1895 北諸県郡畜産組合結成
1926 檍村の有志、任意の酪農組合設立
1930 檍村の酪農組合、後の宮崎県酪農業協同組合の母体となる処理施設を設置
1937 豊安有畜農業組合、農乳組合を設立
1943 「宮崎県酪農協議会規定」制定
1945 井上輝夫、日向農民公社を設立
1948 宮崎県酪農業協同組合設立
1952 宮崎県南部酪農業協同組合設立 大隅酪農業協同組合設立
1955 西志布志の酪農組合と志布志町の酪農組合が合併し、志布志酪農組合を組織
1960 志布志酪農業協同組合設立
宮崎県酪農業協同組合の設立

 大正15年に設立された宮崎地区の酪農組合は、事業不振のため昭和15年[1940]から都城牛乳株式会社の傘下に入っていた。が、牛乳の処理は自分たちで行うべきとの声が高まり、昭和20年[1945]、同社との牛乳取引契約解除に踏み切る。

 昭和23年[1948]、すべての農業団体を統合して、力を振るっていた農業会が農業協同組合法の制定によって解散すると、将来の市乳市場の増加や酪農経営の県内普及を見越し、広域的な酪農業協同組合を設立する構想が進められる。

 そして同年5月、226名の出資引受者のもと、『宮崎県酪農業協同組合(県酪)』が設立された。引受者の内訳は、宮崎市30、東諸県郡20、高鍋町37、川南町54、宮崎郡11、小林町1、中郷村12、三股町15、高城町43、五十市1、志和地2となり、都城北諸県郡は73名を占めていた。

 一方、北諸地区では、井上輝夫らがつくった農乳が都城、三股方面にまで普及し、戦後、農乳組合にまで成長していたが、昭和20年に親会社である都城牛乳株式会社が戦火で消失してしまう。

 井上は新たに『日向農民公社』を設立し、都城市上長飯町に牛乳処理場と子牛保育所を新設。戦後の混乱期に立ち向かう。公社の株主は一時100名に達するなど、県下でも有数の乳業会社に成長を遂げた。

1954〜1961

会社設立と企業合同

—幾多の苦悩を乗り越えて—

昭和29年、酪農振興法が制定され、都城・小林・北諸県・西諸県が集約酪農地域に指定された。南部酪農協はその指定地域内にありながらも、指定工場ではないことから各種の圧迫を受け、苦労を重ねる。そこで見い出した活路は、集約酪農地域の指定を外れていた大隅半島地域と力を合わせ、会社を組織することだった。

全酪協会と日本乳製品協会の共催による酪振法推進の全国酪農大会

全酪協会と日本乳製品協会の共催による酪振法推進の全国酪農大会

昭和34年11月、姫城町に完成した組合事務所と処理工場

昭和34年11月、姫城町に完成した組合事務所と処理工場

1954 酪農振興法が公布される
1955 都城市、北諸県郡9ヶ町村、小林市、西諸県郡6ヶ町村が集約酪農地域に指定される
1957 霧島集約酪農業協同組合連合会設立
雪印乳業、霧島集約酪連の誘致工場として、霧島乳業有限会社を買収。小林で操業開始
1958 志布志酪農協、余乳を南部酪農協に委託加工開始
1959 臨時総会にて姫城新工場建設を決議。集約酪連参加拒否を示す
南部酪農協姫城工場完成
組合事務所を姫城新工場に移転
1960 南部酪農協、関西酪農の木之下部長を4月1日より組合の業務代行者として任命
南部酪農協、第9回通常総会にて南日本酪農協同株式会社の設立を決議
7月29日に会社設立登記完了。組合業務と会社業務を分離
1961 大隅酪農協、臨時総会において南日本酪農に企業合同を決定
志布志酪農協、会社参画決定
会社設立までの経緯
①組合で処理販売までした理由

当時は酪農家が自分達で搾った乳を雪印等のメーカーに出荷しようとしても、メーカーは必要な分だけしか受取らず、余分は受取り拒否ということが頻繁であった。そして、その余った分は二束三文で買い叩かれたり、捨てたりするしかなかった。特に冬場になるとそれが顕著であった。

 そこで、大手メーカーの影響を受けることなく、自分たちで搾った乳をコントロールするために、処理・販売までを自分たちの手で管理しようということになったのである。



②なぜ会社組織になったのか
 

先の理由により、組合で処理販売までを管理し始めたが、西諸県と北諸県の18市町村が昭和30年に集約酪農地域に指定されると、その指定工場となった雪印に出荷するよう、市や県等から半ば強制にも近い圧力がかけられてきた。これは、集約酪農指定地域は一元集荷という原則(法的制約はない)があったからである。

 しかし、過去に受乳拒否等をされた経験から、大手に出荷するのは否とし、今まで通り、独自で処理販売をしようとした。しかし、自分達の組合(南部酪農)だけで余乳処理までを含めた処理販売をやっていくには、集乳範囲が制約されて原乳が不足する上、当時の状況では組合事業の発展も望めなかった。

 こうした経緯から、どこからでも原乳を仕入れることができ、販売にも制約を受けない会社組織による乳業工場を持つことが自分達の生きる道であるという結論に達したのである。

 しかし、集約酪農の地域内で独自方策を打ち出したために、金融機関からの融資が受けられず、資本造成が必要となったが、一組合ではとうてい会社設立に係る資本を集めることは不可能であった。そこで、企業合同し、会社組織をつくりあげれば資本造成も容易になると考えたのである。

 ちょうど、集約酪農地域指定をはずれた大隅半島の生産者も同じ悩みを抱えていたため、糾合して会社組織にすれば資本造成の目処が立ち、生産者が安心して乳を搾れる環境をつくることができるという確信を持った。

 幸い、大隅酪農協・志布志酪農協からは、概ね企業合同に関する同意の感触を得ていたので、先ず南部酪農協の処理販売を会社組織にし、その後、大隅酪農協、志布志酪農協も組織に加わることとなった。会社設立後は増資の繰り返しでもあったが、生産者は乳代天引きで増資に耐えた。

 3つの組合でつくりあげたので、本来は「連合会」なのだが、会社組織であれば役員会承認で済むようなことが、連合会の場合は、農協法上その都度総会での承認が必要となることが頻繁であった。それでは事業の進展に支障を来すということで、会社を設立することになったのである。

 関西酪農協の木之下部長を、社長として迎え入れられるという見込みも、会社設立への大きな後押しとなった。



③設立に向けての苦悩
 

当時の蒲生市長は、集約地域指定を受けるべく各方面に奔走され、指定を受けることとなったが、南部酪農協は、市長からの集約酪連加入要請を断り、会社を設立するなど、独自の方策を打ち出している。最初に国の指定をうけた地域内に、酪振の主旨にそぐわない工場があることを市長は極端に嫌ったのであろう。

 それ故、会社設立に関して様々な設備投資等をするにあたっては、市と県の協力を得ることは難しく、銀行等を通じて圧力までかかって来た。当時の状況を木之下初代社長はこう述べている。

 その①「余乳処理も自分達でやらねばならず、どうしても姫城に工場を作らなければならなかったが、市を通して申請した5条申請の許可がどうしてもおりず、非常に困った。そこで、西酪の矢野社長の同級生であった当時の県会議長に相談し、県を説得してもらった。その後漸く許可がおり、工場が出来ることになった。これには大変助けられた」

 その②「農林中金が金を貸さないから、グリコの吉武副社長に事情を話したところ、850万円の小切手を切ってくれた。借りるにあたっては印鑑もつかなかった。返す金がないので『練乳で返す』と言うと、吉武さんは『株を持ち合いにしましょう』と言ったので、『それは駄目』と断った。結局、金利なしで貸してくれることになった。貸してくれたのはグリコの佐賀工場建設を手伝ったことがあったからだと思う。私は借りた小切手を持ち、その足で関西乳機に直行し、練乳の機械を買った。グリコにはその後も随分助けてもらい、大変感謝している」

1961〜1969

新たな船出

−南日本で輝く星を目指して−

四面楚歌の中で立ち上がった南日本酪農協同株式会社は、会社発展に向けて新たな船出を迎える。まずは生乳の増産に対応できる処理工場として鹿児島工場を新設。さらに、余乳の処理に目処を立てるために鹿屋工場を稼働させた。その間も乳業界を取り巻く環境は目まぐるしく変動し、当社もそのあおりを受けることとなる。

昭和37年当時の市販全製品。左から高千穂バター1/2ポンド、のむヨーグルト135cc、南日本牛乳、南日本フルーツ牛乳、南日本デーリィ200cc、南日本コーヒー牛乳、高千穂バター1/4ポンド

昭和37年当時の市販全製品。左から高千穂バター1/2ポンド、のむヨーグルト135cc、南日本牛乳、南日本フルーツ牛乳、南日本デーリィ200cc、南日本コーヒー牛乳、高千穂バター1/4ポンド

1961販路拡大を目指し、鹿児島市と大口市に進出
1962鹿児島営業所を開設
宮崎営業所を開設
1963鹿児島大学生協と取引開始
1965鹿児島工場着工
1966鹿児島工場創業開始
1967鹿児島工場第二期工事完了。 2ライン(毎時36,000本)稼働
1968市乳の拡販のため延岡営業所を開設
1969乳製品専門工場として鹿屋工場創業開始
早朝、各酪農家から集乳された牛乳は、大型タンクローリー(10,000ℓ入)で工場に直送される

早朝、各酪農家から集乳された牛乳は、大型タンクローリー(10,000ℓ入)で工場に直送される

増産のためには消費拡大を

 昭和36年[1961]に今日の会社体制が確立すると、ただちに販路拡大を目指しての施策が進められる。生産者の生産意欲をそがないためにも、消費の拡大が至上命令だったのである。

 急速に増え続ける生乳生産に対しては、市乳の販売量を増やすことが絶対的な課題となったが、現状の都城盆地と大隅半島だけの販売エリアのままでは、到底対処することは出来ないものと判断。南九州最大の市場である鹿児島市への進出を決めたのは、近い将来の鹿児島工場建設を構想に入れたものだった。  この進出を足がかりに南九州からさらに九州へ、そして全国への販路開拓・拡大に向けての布石が打たれることになった。

 まずは同年12月、大口市と鹿児島市で牛乳の販売を開始する。
 翌37年[1962]の上半期には鹿児島営業所を、同年下半期には宮崎営業所を続けざまに開設。その結果、ビン製品の売上高が大幅に伸び、前年対比164%となった。

 なかでも、鹿児島進出の効果はことのほか大きかった。宅配を確保するため、総動員で1軒1軒を訪問し、拡売に務めるなどした結果、昭和38年[1963]における生乳の飲用向け比率が、前年の58%から80%へと大幅に伸びたのである。
 さらに同年、鹿児島大学生協との取引も始まり、ビン製品の売上高が飛躍的に増加している。国内初となる200ccビン(特濃加工乳)の大ヒットで、大手3社に拮抗する急成長を遂げ、南九州市乳市場のトップシェア獲得の先駆けを果たした。

鹿児島工場の建設

 鹿児島市での売上げが急激に伸びる中、一つの課題が浮上していた。それは、長いときには4時間もかかっていたという輸送問題である。当時、都城から鹿児島に向かうには旧10号線の亀割峠を通らねばならなかったのだが、舗装もされていない難所だったのである。

 この輸送問題を解決すべく、鹿児島工場が建設されることとなった。場所は、加治木町にあった明治の工場より一歩でも鹿児島市に近い所ということで、姶良町に決定。昭和40年[1965]に着工された後、翌41年[1966]9月に操業を開始している。

鹿児島工場の建設

 会社設立のきっかけにもなった余剰乳処理の問題は、新たな船出以降も続いていた。

 当時、当社の余剰乳処理施設といえば、練乳の加工設備しかなく、余剰乳は練乳にするしかなかった。よって、練乳の在庫は増え続け、日本通運の都城周辺の倉庫と、姶良・重富の倉庫が当社の練乳で満杯になるという事態にも陥っていたのである。

 昭和43年[1968]には、乳価の値上がりによって生乳の生産が活気づいたことから、会社全体で前年比125.1%の集乳となった。一方の消費はと言うと、悪天候や他飲料の攻勢などもあって低調に推移。その結果、乳製品の在庫が急増する。

 この事態を受け、年度末に畜産振興事業団による乳製品の買い上げが実施されたが、練乳は買い上げの対象外であったため、練乳の年度末在庫は35,000缶ともなり、当社は苦境に立たされる。

 翌年も、生乳の生産が大幅に増えたことで乳製品の在庫増に拍車がかかり、価格は暴落。練乳はまたしても事業団の買い上げの対象外になったことから、当社の練乳在庫は64,000缶にもなり、経営を大きく圧迫するのであった。

九州の処理工場として真価を発揮

 そんな中、余剰乳処理問題解決の期待を背負い、昭和44年[1969]に操業を開始したのが鹿屋工場である。前述の通り、これまで余剰乳は練乳にするしか手がなかったのだが、乳製品製造施設である鹿屋工場ができたことで、本格的に脱脂粉乳やバターを製造できるようになったのである。ここに、長年の悲願でもあった、生乳の増産に備えた余剰乳の処理体制が確立された。

 鹿屋工場はまた、宮崎・鹿児島の余乳処理だけにとどまらず、長崎、福岡の余剰乳まで受託処理を行い、“九州の調整工場”として大いにその真価を発揮する。その結果もあって、翌年の瓶詰め製品売上が前年比105.1%であったのに対し、乳製品等の売上は269.4%となり、総売上高は140.0%を達成。ここ数年の苦境を切り抜けることができたのである。

 操業開始以来、生乳供給元の酪農協、そして南九州はもちろん、九州の余乳調整工場として南九州の酪農に貢献し続けた鹿屋工場。その存在が無かったとしたら、南九州の酪農はここまで発展していなかったのかもしれない。

1971〜1977

スコールの誕生とLL牛乳

—乳業路線拡張の切り札—

乳製品製造工場として稼働した鹿屋工場だが、余乳が出ない夏場の操業度アップという課題があった。さらに零細農家の急激な減少による生乳生産量の落ち込みなど、乳業界を取り巻く環境は厳しさを増していた。その窮地から当社を救ったのがスコールとロングライフ牛乳(LL牛乳)である。

発売当初の瓶スコールと缶スコール

発売当初の瓶スコールと缶スコール


剥がして持ち帰られる事案が多発するほど人気だったポスター

剥がして持ち帰られる事案が多発するほど人気だったポスター

建設中の都城工場

建設中の都城工場

1971大阪市南区高津町に大阪研究室を開設
製菓原料用調製粉乳『ミルピー』の生産開始
画期的な乳性炭酸飲料『スコール』を開発
1972鹿屋工場、スコール用瓶ライン完成・発売
1973全酪新世乳業に瓶スコールの製造委託開始
北部九州でスコールの販売開始
関西地区でスコールの販売開始。
“愛のスコール”としてヒット商品に
佐賀園芸連に缶スコール製造委託開始
1975スコールを中京地区で販売開始。名古屋での製造開始
都城新工場着工
1976LL牛乳中心の総合基幹工場として都城市高木町に都城工場竣工
1977福岡営業所開設。LL牛乳の本格販売に着手
鹿児島県の離島でLL牛乳による学校給食牛乳開始
研究室の設置

 乳業を取り巻く厳しい環境に抗するべく当社が選んだ道は、“牛乳偏重の考えを改め、1次製品と2次製品の種類を増やすこと”であった。

 その研究・開発部門として、昭和46年[1971]に大阪に研究室が設置される。大阪研究室には、新製品の開発と新たな市場開拓と共に、余乳が出ず乳製品が作れない夏場に、鹿屋工場の操業度をアップさせるという命題が課せられていた。

 ちなみに、大阪には昭和43年[1968]に、大消費地における練乳等乳製品の販路を求めて営業所を開設していた経緯がある。

スコール誕生

 大阪研究室を設置した成果は、すぐその年に現れた。製菓原料用調製粉乳の『ミルピー』と、画期的な乳性炭酸飲料『スコール』の開発に成功したのである。

 特に、スコールの開発は、北部九州・関西地域に至る販路拡大など、その後の事業展開に大きく貢献することになる。

 夏場の不稼働期が課題であった鹿屋工場では、同年、早速ミルピーの製造を開始。翌47年[1972]にはスコール用瓶ラインが完成・稼働したことで、夏場の操業度がアップし、採算体制が確立された。

 昭和47年初頭から販売が開始されたスコールは、革命的な炭酸飲料として業界の注視を集め、瞬く間に当社のヒット商品となっていくのである。

立地条件の不利を解消するLL牛乳

 スコールが当社の新分野における急先鋒であったのに対し、牛乳分野における基盤の確立に重要な役割を果たしたのが『ロングライフ(以下LL)牛乳』だった。

 LL牛乳とは、超高温で滅菌された後、無菌の状態で充填された牛乳のことで、常温でも長期間保存が可能である。その保存性から、当社では、①離島や山間地、遠洋航海の船でも飲用できる、②買いだめができるため宅配の回数が減り、流通の合理化を促進できる、③受給調整が容易、④地価の安い産地加工ができる、⑤生産者が加工向けより高く生乳を出荷できる、などの利点を掲げていた。

 昭和50年[1975]には、そのLL牛乳を中心に製造する都城工場を着工。翌51年[1976]、当社の総合基幹工場として竣工し、操業を開始する。本格的なLL工場としては、わが国最大の規模であった。

 ところで、南九州の酪農所得は、他地方のそれに比べると著しく低い状況にあった。これは、九州の南端という不利な立地条件によるものとはいえ、生産者はもとより、処理販売を委ねられた我々にとっても大変残念なことであった。

 こうした状況から、生乳の産地加工によって遠隔生産地としての不利を補うこと、また、飲用乳拡大による生産者乳価の引き上げが十分に可能であると確信して、LL牛乳中心の工場を新設したのである。

 都城工場の開設によって、当社の基盤が確立されたと言っても過言ではないだろう。

1978〜1988

生乳増産へ

—生産調整によって脆弱化した南九州の酪農に活力を—

石油危機による深刻な不況から脱したわが国であったが、乳製品の過剰在庫に端を発する牛乳の安売り競争など、乳業界を取り巻く環境は厳しさを増していた。当社はそのような中にあっても、新分野である“食べる牛乳”に力を入れたり、生産拠点を広げるなど、南九州の酪農をもりあげるべく積極策を講じていく。

当社の技術と西ドイツ・ビオグルト社の乳酸菌から生まれた、デーリィジャーマンヨーグルトシリーズ

当社の技術と西ドイツ・ビオグルト社の乳酸菌から生まれた、デーリィジャーマンヨーグルトシリーズ

コンデンスとヨーグルッペ
1978 アップルスコール、レモンスコール発売
ラクターゼ牛乳販売
1981 ドイツのボルグマン社及びエボグ社とクワーク応用製品の製造について技術提携
1982 都城工場にクワーク及びヨーグルト設備を新設
種子島酪連を吸収合併
ビフィズス菌を使ったドイツ風ヨーグルトを発売
1984 鹿屋工場の乳製品製造を中止し、都城工場に乳製品製造設備を新設
1985 ヨーグルッペを発売
日本初となるチューブ入りコンデンスミルクを発売
1986 森乳業と提携しLL製造設備を新設。関東工場とする
1987 日本ネッスル社の日高乳業日高工場を操業継続のまま買収
都城工場に超高級アイスクリーム製造設備を新設
屋久島に天然水の充填工場を新設。屋久島縄文水を販売開始
1988 種子島新工場竣工
飲む牛乳から食べる牛乳へ

 生産調整5年目を迎えた昭和58年[1983]には、政府が保管していた乳製品在庫のほとんどが放出され、生乳の需給が安定していった。そんな同年下期の酪農統計に注視すべき点があった。加工向乳量が前年比二桁の伸びであったのに対し、飲用向の生乳使用量が数カ月にわたって前年を割り込んだのである。

 この原因にはさまざまな要素が挙げられるものの、我が国において、“飲む牛乳”一辺倒から、“食べる牛乳”への移行が始まったことが一因であり、業界全体がその対応を迫れることになる。

 当社では、昭和55年[1980]から食べる牛乳としての新商品を開発すべく、設備投資を進めていた。その視線は、生産調整によって脆弱化しつつあった南九州の酪農を、生乳の需要を増大させることで増産体制に導き、復興させることを見据えていた。

 昭和56年[1981]には、ドイツ・ボルグマン社、及びエボグ社とクワーク(フレッシュチーズ)応用製品の製造について技術提携。翌57年[1982]、都城工場にクワーク及びヨーグルト設備を新設し、10月にはビフィズス菌を使ったドイツ風のヨーグルトの販売に踏み切っている。このヨーグルトは以降、着実な展開を見せて市場に定着すると共に、その特性が高く評価され、国内各地から技術供与の申し入れが相次いだ。

 翌58 年には、国内初の商品となるクワークも発売されている。

生産拠点を全国へ拡大

 昭和61年[1986]、埼玉県にある森乳業と提携し、LL製品の工場が新設された。発売開始以来、当社の売上を牽引し続けるLL製品の関東市場における拠点が確立されたことは、その後の展開に大きな期待をもたらすものであった。

 同年度末には、ネッスル社所有の日高乳業日高工場(北海道)の買収契約が成立し、翌年度から、現状のまま事業を継承することが決まる。これにより、会社創業以来のネックだった乳製品夏涸れの課題が一挙に解決し、将来への飛躍が約束される体制が整ったのである。

 さらに昭和62年[1987]4月に鹿児島県熊毛郡屋久島町に4haの用地を買収し、屋久島工場が建設された。

 同工場は牛乳処理も含めた操業も行われていたが、現在は天然水製造専門工場として稼動している。 「屋久島天然水」は、昔から“おいしい水”の代名詞と言われるほど定評が高かった屋久島の水に当社も注目。先のブーム到来を見越しての先行投資であったと言える。

 このように、昭和60年代初頭にかけ、北は北海道から南は屋久島(水・牛乳製造。昭和62年に充填工場新設)まで、全国に生産拠点を広げる積極策が講じられた。

1988〜1998

新規事業への挑戦

—さらなる事業拡張に向けて—

本業である乳業においてさまざまな積極策を講じる一方で、観光という新たな分野へ踏み出す。酪農後継者の育成と、消費者の酪農への理解を深めてもらうことを目的とした『高千穂牧場』。そして、家族揃っての長期滞在型へと変わりつつあった新たな観光趣向に応えるための『シーサイドホテル屋久島』がそれである。

昭和63年に買収した国民宿舎屋久島荘

昭和63年に買収した国民宿舎屋久島荘

南九州の新たな観光地として注目を集めた高千穂牧場は、平成3年5月2日ついにオープンを迎える

南九州の新たな観光地として注目を集めた高千穂牧場は、平成3年5月2日ついにオープンを迎える

1988 国民宿舎屋久島荘を買収
高千穂牧場建設完了
1989 リキュール類の免許(酒製造)を取得
リゾートホテル・ホテル屋久島新装オープン
高千穂牧場開設
1990 クリームリキュール『ミルキーランド』発売
(有)高千穂デーリィファーム設立
1991 高千穂牧場オープン
1992 ホテル屋久島、新館増築起工式
1993 宮崎シーガイア高千穂牧場店を出店
霧島の新名所が誕生

 着工後4年目となる平成元年[1989]、当初の予定通りに開設した高千穂牧場は、「帝王のミルク」といわれる味の濃い牛乳を出すガンジー種やジャージー種などの乳牛を飼養して製品作りに着手。そして平成3年[1991]5月2日、体験牧場としての高千穂牧場がついにオープンを迎える。木之下初代社長が唱えてきた「酪農家と消費者が共に考え、語り合える場」がここに誕生したのである。

 開業28年を迎える令和元年[2019年]には、来場者が1,700万人に達するなど、今日に至るまで多くの観光客に足を運んでいただき、“酪農後継者の育成”と“消費者の酪農への理解を深める”という当初の目的を果たすことで、当社の業績向上に大いに貢献し続けている。

高千穂牧場生まれのミルクリキュール

 平成元年にリキュール類の免許を取得していた当社は、高千穂牧場がオープンする前年の平成2年[1990]、クリームリキュール『ミルキーランド』を発売する。

 クリームリキュールは、伝統的な酪農国であるアイルランドを中心に育まれてきたお酒であり、チーズを製造する際に発生するチーズホエーをアルコール発酵させたものに、高千穂牧場で飼育されるジャージー牛の濃厚な生クリーム、そしてブランデーまたはラム酒をブレンド。国産第一号のクリームリキュールとして注目を集めた。

1999〜2004

再建

—新社長を迎えての次なる歩み—

平成も始まってしばらく経つと、それまでに推し進めてきた多角経営化と急変した乳業環境が会社の経営を圧迫することになり、経営再建が急務となった。 会社創生期から長きにわたって当社を率いてきた木之下社長が退任。その信念は木之下と関西酪農協同時代から付き合いがある檀上昌也と、東京支店長などを歴任した若きリーダー加納昭に引き継がれ、会社は次なるステージへ歩みを進めていく。

1999 倍額増資初年度。1億6,000万円を増資し、
資本金6億4,000万円に
鹿屋工場と種子島工場のHACCPシステム、
厚生労働大臣承認取得
木之下社長が代表取締役会長に、
新代表取締役社長に檀上昌也就任

経営改善プロジェクト立ち上げ
2000 1億6,000万円を増資し、資本金8億円に
決算期を3月期から2月期に変更
木之下会長、会長を退任し相談役に
屋久島のホテル経営を移譲
2001 1億6,000万円を増資し、資本金9億6,000万円に
木之下相談役、相談役を退任し顧問に
2002 執行役員制を導入
檀上社長が退任し、新代表取締役社長に加納昭就任
高千穂牧場カフェ・オ・レ、高千穂牧場のむヨーグルト発売
2003 本社および都城工場がISO14001取得
2004 基幹システム「NEXT’S」稼働
新たな経営理念を制定
檀上昌也新社長が就任

 乳業プラント集約化を目的とした業界再編が加速し、大手乳業を中心とした施設の大型化、合理化が進められた平成11年[1999]は、当社にとって大きな節目となった。会社創業時より、社長として39年の長きにわたって手腕を振るってきた木之下利夫が代表取締役会長に、新たな代表取締役社長に檀上昌也が就任したのである。

 同年の売上高は、価格競争激化による牛乳類の売上げ不振や、PETスコールの販売が振るわなかったこともあり、前期比94.7%という結果であった。このような厳しい経営環境を踏まえ、檀上新社長は就任早々の翌月に『経営改善プロジェクト』を発足し、抜本的な経営体質の強化に取り組んでいく。

 その内容は次のようなものであった。①経営責任の明確化、②増資、③グループ全体の経営執行管理体制の強化、④南酪の経営改善、⑤子会社戦略の見直し、⑥グループ全体の人員削減と収益改善、⑦遊休資産の処分。

 この計画を元にした全社一丸となっての経営改革が、檀上新社長のもと、スタートしたのである。

新社長に加納昭

 平成13年[2001]、檀上社長が経営体質強化のための一つとして定めた『資本強化3ヵ年計画』の最終増資が完了。資本金が9億6,000万円となり、ここに経営の大きな柱が築かれたのである。

 翌14年、執行役員制を導入したのを機に、檀上社長は勇退。新たな代表取締役社長に加納昭が就任する。

 就任初年度は、中期経営計画の方針に沿って、地域での営業基盤のさらなる拡大をテコに、チルド類の広域展開を加速するための効率的な営業・物流体制の整備を進めるとともに、消費者ニーズにマッチした製品開発に注力。そして、消費者の視点に立った品質管理体制の強化・充実、消費者に対する商品の安心・安全の確保、南酪グループとして将来の連結経営を視野に入れた経営の効率化・合理化について一体的に取り組み、グループの経営体質強化に努めた。

 さらに、就任3年目となる平成16年[2004]には、南九州を中心としたデーリィブランド戦略の強化と物流体制の整備、市場動向を捉えた商品開発の強化、南酪グループの中心企業として財務体質の強化などを推進し、経営基盤の充実・強化に係る諸施策に取り組んだ。

経営理念を制定

 当社設立から45年目を迎えた平成16年[2004]に、経営理念の見直しがなされ、翌年2月25日に制定された。新たな経営理念は、当社で働く全員が共有すべき基本的価値観を示すものであり、南日本酪農協同という企業自体の社会的存在意義や目的、今後の経営が目指す方向を示しており、社員一人ひとりの意思決定や行動の判断基準となるものである。

 そして、当社が半世紀にわたり経営の拠りどころとしてきた「経営基盤の確立を図るとともに地域酪農の安定と発展に資する」の精神を踏襲しつつ、新たに『基本理念』を「お客様の毎日の健康づくりに貢献するため、南九州の酪農家とともに安心安全な商品をお届けします。」と明示し、企業理念の中核に置いて、社会に宣言することとした。

経営理念

当社は地場企業として常に誇りを持って行動し、南九州の酪農家を背景とした乳業メーカーの特色を最大限に生かして、安心・安全な乳製品を創造する。そして、お客様の毎日の健康づくりのため、品質の良い、新鮮な製品の提供が使命である事を役職員一同が行動指針とし、下記の通り、会社の経営理念として定める。

お客様の毎日の健康づくりに貢献するため、南九州の酪農家とともに安心安全な商品をお届けします。

2005〜2019

挑戦

—さらなる成長に向けて—

創業以来の木之下体制から、檀上、加納の両社長によって新たな一歩を踏み出した当社。全国そして海外への展開や、独自乳酸菌の新商品開発、それに伴う設備やシステムの導入など、創意工夫と英知を集結して、さらなる挑戦を続けていく。その背中にはいつも、酪農家の夢と願いを背負っているのである。

当社チルド製品の全国展開を牽引する高千穂牧場ポリボトルと北海道日高モッツァレラ(発売当時のパッケージ)

当社チルド製品の全国展開を牽引する高千穂牧場ポリボトルと北海道日高モッツァレラ(発売当時のパッケージ)

香港の量販店に並ぶ日本産LL牛乳。ちなみに2019年現在の1000ml販売価格は北海道産LL牛乳が460〜504円、霧島山麓牛乳は517円である

香港の量販店に並ぶ日本産LL牛乳。ちなみに2019年現在の1000ml販売価格は北海道産LL牛乳が460〜504円、霧島山麓牛乳は517円である

2005 モンゴル伝統的乳製品由来乳酸菌の研究を開始
2006 都城工場にESL製法を採用し、牛乳賞味期限を13日に延長
社史「デーリィ牛乳四十五年のあゆみ」発刊
2007 鹿児島県下5酪農協が合併し
鹿児島県酪農業協同組合が誕生
都城工場ポリボトル充填機使用開始
2008 鹿屋工場にポリ成型機搬入
2009 鹿屋工場CNC機ポリボトル220ml生産開始
2010 LLデーリィ霧島山麓牛乳を香港へ輸出
2011 海外事業推進室を設置
2013 資本金を4億8,000万円に減資
2014 新コーポレートブランドロゴ『Dairy』を制定
日本コカ・コーラ株式会社と飲料事業の業務提携
2015 コカ・コーラウエスト株式会社の自販機で
スコール販売開始
2017 都城工場にLLミニラインを更新
2018 都城工場で使用する燃料を都市ガスに転換
2019 鹿屋工場にポリボトル成型機を増設
独自の乳文化が発達するモンゴルへ

 平成17年[2005]、N-1菌やBb-12など既存のプロバイオティクス乳酸菌による製品展開では他社との差別化が困難と判断した当社は、独自のプロバイオティクス乳酸菌を求めてモンゴルへ目を向ける。

 モンゴルでは西洋とは異なる独自の乳文化が発達している上、当社の地元である都城市はモンゴルのウランバートル市と古くから文化交流があり、友好交流都市の関係にある。そのような縁もあり、モンゴルの遊牧民が作る伝統的な乳製品から、日本人の体質に合った機能性乳酸菌が採取できるのではないかと考えたのである。

 モンゴルへと渡った研究班は、共同研究先のモンゴルバイオテクノロジー協会およびモンゴル国立科学技術大学の協力を得て遊牧民のゲル(移動式住居)を巡り、ヨーグルト(タラグ)、チーズ(ビャスラグ、アーロール)、バター(ウルム)、馬乳酒(アイラグ)などのモンゴル伝統的乳製品を合計150検体以上採取。その後、持ち帰ったモンゴル伝統的乳製品から乳酸菌と思われるコロニーを分離し、2,000株以上の乳酸菌ライブラリーを構築したのである。

独自の乳文化が発達するモンゴルへ

 かくして、研究者たちの熱い想いと開発部門の総力を結集し、7年の歳月をかけて取り組んできたモンゴル由来の乳酸菌から選び抜かれた当社独自の乳酸菌『LP432』が誕生したのである。

 当社は、満を持してこの乳酸菌を配合した乳酸菌飲料やヨーグルトを商品化。平成24年[2012]には乳酸菌『LP432』商品シリーズの販売を開始している。現在では宅配瓶『LP432乳酸菌』や『LP432カプセル』、『スコール乳酸菌ナタデココ』など幅広い商品で展開されており、当社の新機軸として順調に売上を伸ばしている。

海外事業推進室

 海外への営業体制を整えるため、平成23年[2011]には本社営業本部内に海外事業推進室が設置される。その使命は香港市場での認知拡大と東アジア地域への販路拡大・開拓だった。

 香港での販売先は、香港そごう、イオンなど日系百貨店やスーパー、そして地元資本の一田百貨店などであるが、すでに北海道産をはじめ同業他社が参入している店舗においては積極的に店頭プロモーションを実施した。具体的には、霧島山麓の位置を示した地図を掲示するなどして、温暖で自然豊かな地で生産された牛乳であることをPRしたのである。その結果、新規顧客を獲得するだけでなく、リピーターの数も増やしてきた。

さらなる企業イメージの向上を目指して

 平成26年[2014]3月、牛乳をはじめ、ヨーグルトやチーズ、スコール、ヨーグルッペ、高千穂牧場シリーズなど、すべての製品を同一ブランドロゴで統一するため、新コーポレートブランドロゴ「Dairy」を制定した。

 今日、チルドからドライ品まで取り扱う製品は多岐にわたり、南九州から九州一円にスタートした販路も日本全国、さらには海外へと広がりを見せている。こうしたなか、多様化するすべての製品を英文字「Dairy」ロゴで統一することは、南九州から全国に流通する南日本酪農グループの製品が持つ価値を一層高め、さらなる企業イメージの醸成と企業価値の向上につながる。

コカ・コーラ自動販売機にてスコールを発売開始

 平成26年[2014]5月、日本コカ・コーラ株式会社との間において、飲料事業の業務提携を行った。提携内容としては、同社に対して、日本における自動販売機およびファウンテンのチャネルに流通するスコールの製造、販売、頒布に関し、当社商品「スコール」の使用権を許諾するものである。この業務提携の目的には、同社が持つ幅広い流通網を生かすことで、さらなるスコールの販売拡大および認知度向上につなげることにあった。

 平成27年[2015]にコカ・コーラウエスト株式会社(現・コカ・コーラボトラーズジャパンホールディングス株式会社)の自動販売機でPETスコール500mlが販売されたのを皮切りに、日本コカ・コーラ社の全国の関連会社での自動販売機による販売がスタートした。

 この取り組みによって、スコールブランドの全国への認知度拡大に一層の拍車がかかることとなった。

2017〜

未来へ

—変革のDNAを次代へ継承—

檀上、加納両社長の手腕によって着実に再建への道のりを歩み始めた当社。その流れは新社長、有村義昭に引き継がれていく。酪農家の減少による生乳生産量の低迷や少子化に伴う牛乳類の販売量減少など、当社を取り巻く環境は決して穏やかではないが、南九州の酪農家の夢と願いである「より新鮮でおいしい牛乳をたくさんの人に飲んで頂きたい」という想いを胸に社員一丸となって邁進していく。

さらなる企業イメージの向上を目指して

 平成29年[2017]、経営トップとして15年の長きにわたり、さまざまな経営改革を推進してきた加納昭が代表取締役会長に、新たな代表取締役社長に有村義昭が就任した。そして、令和元年[2019]5月、第59期定時株主総会をもって加納会長が勇退。当社を経営不振から蘇らせた功績は、4代目有村社長に引き継がれたのである。

さらなる生乳処理の維持・拡大を目指して

 昭和35年に設立した当社は、今年、創業60周年の大きな節目を迎えた。昭和から平成、そして令和へと時代が移りゆく中、歴代の経営トップにより幾多の艱難辛苦を乗り越えて事業が発展してきた。

 しかし、現在の当社の経営状態は決して盤石なものではなく、生乳生産量の減少に伴う乳製品需給のひっ迫、物流費や原材料価格の高騰、少子化などに伴う主力商品の牛乳類の販売量減少、さらには競合他社との価格競争など、さまざまな局面において経営課題を抱えている。有村新社長にとって誠に厳しい船出ではあるが、令和元年[2019]に策定されたグループ中期経営計画に沿って、さらなる経営体質の改善や強化策が実施されることとなった。

 今後は、当社の経営ミッションとも言える「生乳処理の維持・拡大」を基本に、牛乳・乳製品の価値創造を常に追求し、新商品の研究・開発に積極的に取り組むこと。そのことが、50年先、100年先の事業継続を見据えた経営改革につながっていくことになる。

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